結城の暮らし INTERVIEW 結城での多様な暮らし方を実践する方々に、結城の暮らしについてあれこれ伺います。

結城紬が持つ魅力とその歴史を、お客様と先輩とともに紡いでいく|奥順株式会社・小島光弘さん

「つむぎ館」は、風格が漂う大町通りにある、結城紬の総合ミュージアム。結城紬を生産・販売する「奥順株式会社」が運営しています。勤務する小島光弘さんに、お仕事について伺いました。

お客様と丁寧に向き合う1対1の接客

結城駅から徒歩15分ほど歩くと到着する「大町通り」。明治初期から大正時代にかけて建設された「見世蔵」が多く並び、結城市が積み重ねてきた歴史を肌で感じる事ができる通りです。

「奥順株式会社」は、大町通りに面して敷地を構えています。1907年(明治40年)の創業以来、製造問屋として結城紬の生産と発展に貢献。2006年には資料館や機織り体験、商品の販売を含む総合ミュージアム「つむぎの館」を開館。それ以来「結城紬」という日本文化を伝える役目も担っています。

今回お話を伺ったのは、つむぎの館で販売業務を行っている 小島さん。深い青色のショールを首に巻いたコーディネートがとても粋な人です。

「2019年の初冬の頃に入社したばかりで先輩にアドバイスを頂き勉強している身ではありますが、柄や小物の取り合わせなどの相談に乗りながら接客しています」

若者からファミリー層、シニア層までと多様なつむぎの館の客層に、小島さんは「接客は人と人とのコミュニケーションである」ということを一番心がけていると言います。

「接客の基本は1対1なので、お客様とどれだけ丁寧に向き合うか、を大切にしています」

目標を達成して決めた洋から和への転職

小島さんは現在、古河市に家を持ち、結城まで通っています。前職ではアパレルの店舗で、デニムを販売していたそうです。店長を務めただけでなく、店舗の成績が評価されてアメリカのデニムメーカー本社を訪問したこともあるのだとか。活躍されていたなか、なぜ転職しようと思ったのでしょうか。

「理由は2つあるんですが……。1つは、目標を達成してしまったから。最古のジーンズと言われているデニム『XX c.1879』がネバダ州の炭鉱で発見され、デニムメーカーの本社が現在も保管しています。店員として働いていた頃のわたしは、いつかは本社のトップに会い、デニムを手に入れるまでの経緯を伺いたいと思っていました。それから店長になり、勤めてからの念願だった現地へ連れ行ってもらう機会に恵まれ、ついに『XX c.1879』に関わる資料を直接見ることができたんです。そこで満足してしまったというか」

もうひとつの理由は、人事異動による転勤が多かったこと。

「関東圏内を転々としていて、早い時には半年で引っ越しの絡む転勤もありました。そのうち地元である古河に家を持つことになり、目標も達成したので転職を考えるようになりました」

次の職は、同じアパレル業界でも、日本のものにしようと決めた小島さん。「日本のものだったら着物だろう」「結城までだったら通えるはず」と考えて、奥順に就職しました。

「転職して終業の時間が早まり、米農家である実家の手伝いをできるようになった」と小嶋さん。仕事とプライベートのバランスもとれるようになって、充実した毎日を送られています。

結城紬と結城のまちの魅力とは

「結城紬には1500年〜2000年の歴史があると言われています。現代でも糸から着物になるまで、すべての工程が手作業です。洋服とはまるで次元が違います。質感や染まり方の違いなども天然の繊維ならでは。生地としての魅力をとてつもなく感じています。結城紬に触れるようになって、歴史の奥深さをより意識するようになりました」

結城の街へ関わるようになり、小島さんに訪れた変化がもうひとつあります。それは、結城市とその周辺の歴史を深く調べるようになったこと。

古河市と結城市の歴史上の関わりや、結城家と徳川家・羽柴家のつながり、結城家の後に結城を治めた水野家の話……。「もともと歴史を知るのが好き」と言う小嶋さんはインタビュー中、自身で調べて得た知識を話してくださいました。個人的に調べたこうしたこともすべて、つむぎ館での接客につながるといいます。

「結城紬は、武士が着るものだったと言われています。そう考えるとロマンを感じますよね。お客様に当時の文化や背景も交えながらご案内することで、紬の“もの”としてのすごさだけでなく、紡がれてきた歴史の重みもお伝えすることができるんです」

結城紬の伝統に小島さんの洋服と歴史、2つの視点が加わることで、いつか新しい結城紬の世界が開かれるかもしれません。その「いつか」がとても楽しみです。

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